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徳川家康が作った「江戸幕府」が260年も続いた理由とは?

 秀吉は「人たらし」と言われるほど、家臣の気持ち(モチベーション)を上げることが得意でした。その要因は様々ありますが、いくつか例をあげれば
1、自身が百姓からのスタートであり、どうすれば人が成長を欲するかを自身の体験から良く分かっていた
2、信長や家康と違い、親(先代)から受けついだ家臣がおらず、自身が一から人材確保・育成を手がけなければならなかった
3、百姓から天下人までの道のりを共にかけ上ることにより、家臣と共に信念や思いを共有する土壌があった
と言った理由があります。

 つまり、天下人になるまでずっと「上り坂」であり、報酬等の成果物が常に存在したことで家臣のモチベーションが保たれ、成長意欲も増大しました。しかし以前から申し上げている通り、秀吉の人生は天下を取る前と取った後では180度違う状態になっていきます。

 そして豊臣株式会社は秀吉の1代限りとしてその後は衰退して行くのですが、その大きな原因の1つが今回お話しする「社員の成長の仕組み化」が出来なかったと言うことになります。

 ここであらかじめお話をしておきますと、秀吉の家臣にマネジメント手法が間違っていたと言うことではありません。秀吉のやり方は社員の成長を促進するために非常に有効ではあります。ただし秀吉は「仕組み化」をすることをしません(できません)でした。ここに1つの問題があるのです。

 秀吉のマネジメント手法は言ってみれば家臣の「個」の能力に光をあて、それが大きく伸びて行くことをバックアップしたと言うことになります。しかし、私が預かっていた部下もそうでしたが、元々能力がある部下もいれば努力で開花して行く部下もいましたし、その成長スピードが早い者も遅い者もいました。社内にいる社員が持っている能力・スキルはそれこそ2つとして同じものはないのです。

 こう言った経験はありませんでしょうか?仕事ができる社員にある仕事を全面的にまかせていたが、その社員が退職したとたんにその部門が一気に停滞し支障が出たと言う経験を。これはまさに仕事が社員に「属人化」していると言うことが原因と言えます。

 

仕事を「属人化」から「業務の標準化」に転換させた徳川家康 

 秀吉はそこから抜け出すことはできませんでした。そんな中、衰退して行く豊臣株式会社を横から見ていた戦国武将がいます。それが徳川家康です。家康は信長・秀吉と続く経営を観察しながら「社員の誰がやっても同水準でできる仕組みを作らないと組織は永続しない」と言うことを身近で感じていたのです。

 家康は信長・秀吉の先人の失敗を受け継ぎ、それを改善することで260年続く徳川株式会社を築きました。その着手は意外に早く、1590年の秀吉が関東の北条氏を攻めほろぼしたいわゆる「小田原征伐」の際に父祖伝来の地である三河から新天地である江戸に「国替え」となり移動した直後から始まり、1603年に江戸幕府をひらいてからその動きは本格化します。

 何か仕事をする時に参考にするいわゆる「マニュアル」に相当するものが全て作られていたと言います。それを見ることで初心者でも同じ水準で成果を出せる「仕組み」を作ったのです。それを作ることで家臣の能力の差を少なくし仕事の「属人化」から「業務の標準化」に成功したのです。

 その後「仕組み化」はあらゆる物に応用され、やがて最終的にはトップである将軍が誰になっても組織として機能するまでになりました。徳川の歴代将軍を見ていくと、前半は比較的将軍が直接決断することが多く決定権がトップに依存する体質だったのに対し、後半になって行くにつれ将軍の直属機関である「老中制」が機能し、複数の老中たちが前例とそのマニュアルを元に決定して行くと言うまさに「将軍いらず」の状態にまで発展したのです。

 これこそ徳川株式会社が260年続いた大きな要因の1つと言えます。会社の発展段階としてトップの権限を下に落として行く。これが徳川株式会社では円滑に出来ていたのです。

 社員の「個」に頼らず負担を減らすべく「仕組み化」を実践し、260年続いた「徳川株式会社」のような永続企業となるべく基盤をつくってまいりましょう。