0%

思いを一にし、時には苦言をも呈してくれる「右腕」は貴重な存在

 

 先日、お取引させて頂いている中小企業の社長様が「最近、長年共にやって来た1人の部下が私の気持ちをくみ取り自発的に動いてくれるようになって本当に助かっている」とうれしそうに話をしてくださいました。又、「今まで何でも自分1人でやっていたのが、その部下と役割を分担し、仕事が多角的にできるようになった」とも。

 その社長は今までは「全て自分が責任を持ってやらねば」と気負っておられたのですが、現在では最終的な責任は当然とるものの、うまくその部下とすみ分けができて仕事がはかどるようになったと感じているようです。

 こう言った経験はマネージャー時代の私にもありました。例えば部下と接する時には「直接的」が良い場合と「間接的」が良い場合があります。しかし、私も自分と同じ側として同じ思いに立ってくれる心強い部下がいなかった時は、全て「直接的」に対応しなければならず部下とうまくコミュニケーションが取れなかったりモチベーションを下げてしまうことが良くありました。

 逆に「右腕」として動いてくれる部下がいる時は、例えば「これは上司である自分が直接接しないほうが良いな」と感じる場面などでは、その「右腕的部下」が1クッションはさむ形で該当する部下に私の代わりに接してくれたためにその部下も真意を理解し仕事をしてくれると言う場面がありました。

 部下から社長や上司を見た場合、直接接するのが「大丈夫」な時と「嫌」な時があります。1つの例で言えば「ほめる」時と「しかる」時でしょう。一概にはこのパターンに全て当てはまる訳ではありませんが、やはり部下からすれば「ほめられる」時は「直接」のほうが良いでしょうし、「しかられる」時はできれば上司本人から厳しくされるのはさけたいようです。

 そんな時にまさに「よごれ役」ではありませんが、より部下のほうに近い存在であり、両方の気持ちが分かる「橋わたし的立場」としての「右腕的部下」が非常に大きなポイントとなりますし、「右腕的部下」がいるといないとでは部下のやる気に大きな差が出ると言ったデータもあります。

 

秀吉と秀長の兄弟関係から学ぶ「右腕的部下」の大切さ

 

 この事例は百姓から天下人になった「日本一の出世人」である「秀吉」にもあてはまります。

 秀吉の出世はもちろん彼自身の不断の努力があってこそですが、決して秀吉1人の力であの偉業が実現してわけではないのです。その輝かしい「サクセスストーリー」の裏にはそれを生涯にわたって支え続けた「影の立役者」がいました。それが弟の「豊臣秀長(とよとみひでなが)」です。

 戦国時代で「兄弟」と言うと、たった1つの「当主=社長」の座をめぐって骨肉の争いをした武将が非常に多いのです。あの信長でさえ、若い頃に弟の「織田信行(おだのぶゆき)」と当主の座をめぐって争い、最終的には信長が信行を寝所にまねいてだまし討ちにすると言う最悪な結末をむかえています。

 そんな家督争いが多かった戦国時代にはめずらしく秀吉と秀長の兄弟は本当に仲が良く、お互いに協力し合ったと言われています。それは全て弟の秀長の努力のたまもの。最後まで自分が前面に出ることなく兄の秀吉を立て、自分は「調整役」や「憎まれ役」を一手に引き受けることで秀吉の天下取りを支えたのでした。

 これは目立つのが好きで前に出たがる「秀吉」とおだやかで人に安心感を与える「秀長」との絶妙な兄弟の「コンビマネジメント」でしょう。お互いに苦手な部分をおぎない、「2人で1つ」の状態を維持していくことで秀吉の快進撃はスピードを増して行きました。

 秀吉もどんなに地位が向上しても秀長の発言だけは例え厳しい「苦言」であっても耳をかたむけたと言います。そしてそんな秀長が秀吉の「右腕」として存在していたからこそ従った大名や家臣もいるのです。それほど秀吉にとって秀長は「なくてはならない存在」だったと言えます。

 この兄弟の関係がいかに重要だったか物語るのは秀吉の晩年です。秀長は兄よりさかのぼること7年前の1591年に病気で亡くなります。まさにその辺りから秀吉の「暴走」が始まるのです。ほんとにしっかりと結んであった手綱が切れてしまったように・・・。

 「秀長が秀吉より長生きしていたら豊臣家は長く続いていた」と主張する人も多くいる秀長の影に徹した仕事ぶりが「豊臣株式会社」を支えていたと言っても過言ではないのです。

 社長が1人で全てを背負うことは厳しい状況を招きリスクも大きくなります。又、事業規模が大きくなれば必ず社長1人で全て進めることの限界が必ずおとずれます。ぜひ秀吉と秀長の兄弟の関係のように、信頼できる「右腕的部下」を育成し「二人三脚」で会社の発展に努力してまいりましょう。