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一方の考えにかたよらないことで冷静かつ公平な判断ができる!

 

 以前、仕事で関わらせていただいていたある社長様からこんな話を聞きました。社長様いわく「どうしても私と考えが近い社員をそばに置いてしまう」と言うことでした。

 これはトップや上司であれば誰もが何かしら経験されていることと思われます。「人」である以上、自分と同じ考えを持った社員や部下のほうが仕事もやりやすいですし、そもそもそこに対して余計なストレスをかかえることがないからです。

 しかしそれでは良くないことも重々承知しています。対極の考えを持っている社員や部下がいることの重要性もトップや上司であれば認識しているのです。でもできない。これが人の弱いところなのかも知れません。

 当然その状態が続けば対極の提案がいっさい出なくなり、経営判断に支障をきたしていくことになります。私も20年間ワンマン社長が経営するブラック企業で働いていたのでその点は嫌と言うほど味わってきました。

 更ににベンチャー企業等の経営者は創業時のメンバーを特別あつかいにし、中途で優秀な社員が入社したとしても思うように能力を発揮できないと言った状況を作りだすことも多いようです。

 そんな私がマネージャーとして心がけていたことは「攻め」と「守り」の考えを持つリーダーをチームに置くことです。と言っても中小企業ですので、都合よく考えが違う部下がいる時ばかりではありません(その部下が持っている価値観がありますので育成となると時間をかけることになります)が、いずれにしても様々な意見が出る環境を作ろうとしたのです。

 その試みは私が考えていた以上の大きな効果をもたらしました。とにかく私が思いつかない視点での提案があがってくるようになりました。特に私の考えと対極にいる部下の提案は非常に貴重でした。確かに私も人間ですのではじめはイラっとすることも多かったのですが、しだいに「なるほど。そんな考えもあるのか」と思えるようになったのです。

 その結果、自分の価値観だけではない非常に視野の広い状態、又、フラットな気持ちで冷静に公平に物事を判断できるようになりました。そしてチームとしても成果を出すことができ、社内での評価も変わっていったのです。

 

 

自分にはない「守り」のブレーンをそばに置くことでバランスをとった伊達政宗

 

 このいわゆる「トライアングルマネジメント」を実践したのがあの「独眼竜」で有名な伊達政宗です。

 政宗は能力がありながら「時」と「場所」にめぐまれず「天下人」になれなかったとさえ言われるすぐれた戦国武将でした。生年は信長たちの子供世代の1567年、生まれた場所は当時の日本の中心地である京都より遠くはなれた奥州(現在の東北地方)の米沢と、非常に不利な状態での人生のスタートだったのです。

 それゆえに政宗が奥州をおさえた頃、西ではすでに秀吉の天下が確定しており、彼はくやしい思いをしながらも秀吉の臣下にくだります。しかしそこからが政宗のすごいところ。秀吉→家康とまったく性格がちがう2人のトップの下をたくみに泳ぎ切り、最終的には62万石をおさめる大大名となりました。

 その成功の要因はどこにあったのでしょうか?それが「攻め」と「守り」の家臣をそばに置いたことでした。特に政宗が重視したのは「守り」。それは彼自身が元来「攻め」の考えの持ち主だったため、そのおさえ役としての役割を期待したのです。

 政宗は17歳で家督を継ぎ伊達家のトップとなりますが、その時の家臣の布陣が彼より年上で「古参(古くからいること)」である伊達実元(だてさねもと)や鬼庭良直(おににわよしなお)等の「おさえ役」と彼と歳の近い若手の伊達成実(だてしげざね)や片倉景綱(かたくらかげつな)等の「イケイケ派」。まさに「攻め」と「守り」の両軸を備えた布陣となっていました。

 この布陣は秀吉の家臣となる頃には政宗より10歳年上の景綱(別名を小十郎)が「守り」にまわることで踏襲されていきます。政宗は秀吉と家康から下りてくる一癖も二癖もある指示をその度にこの「トライアングル」の布陣にかけることによってベストに近い形で乗り切っていったのです。

 これは彼自身が「自分に足りないもの」を認め自分にはない視点からの気づきを得られる環境を作り上げたと言うことであり、その点で政宗は大きな力・野望がありながらも、現実をふまえ戦国時代と言う「荒波」を生き残ることに徹したすぐれた経営者と言えます。

 トップや上司は決定権があるためどうしても自分本位の判断をしてしまいがちです。しかし、その言ってみれば「かたより」が時には「誤り」をまねくことにもなります。ぜひ、「攻め」と「守り」の社員や部下をバランスよく配置し、広い視野での経営判断ができる体制をつくりましょう。